今やバラエティ番組に引っぱりだこのこの方、“椿 朋海”さん。
北海道、札幌すすきので常にナンバーワンホステスとして大金を稼ぎ、現在はバルーンショップを経営しながらモデル業をこなしている。
いままでに掛けた美容整形費用は3000万円超、通り名は『女ターミネーター』。
年齢はなんと今年40歳!
はっとするほど美しい姿に、思わず「逆サバ読んでいませんか!?」と言葉が漏れてしまった。目の前に立つと、二十代にしか見えないのである。
美に掛ける並々ならぬ情熱、そして燃え上がるほどパワフルな生き様、椿朋海さんが持つ美しさとはいったいどこから溢れてくるのだろう。
————さっそく色々とお伺いさせて頂きたいのですが、まずは学生時代、どのような環境で育ち、どのようなお子様だったのでしょうか?たとえばご兄弟とか……
ひとりっこなので兄弟はいないです
生まれたところは千葉県なんですけど、幼稚園から札幌に引っ越してきて、それからずっと札幌ですね
————ではずっと北の大地で過ごされてきたのですね。学生時代は、学校とか同年代の方たちの中でどのような立ち位置だったのでしょうか
え、立ち位置ですか(笑)
どちらかというと大人しいほうだったと思います。あまり交流はもたなかったですね
————趣味とか、部活とかやられてたんですか?
中学校、高校は柔道部でしたね。
初段持ってます。いまはもう全然やってないですけど……
————ホステスの世界に足を踏み入れたきっかけは?
高校生のころからずっとホステスをやりたくて、なので卒業したらすぐに。
でも短大も行ってたので、アルバイトとして。
————学業との両立、大変じゃないですか?
十代のパワフルさがあったので(笑)
タフでパワフルで、十代のころは24時間くらい寝なくても平気でしたね。
でも出勤日数が週三とか週四とか、そのくらいが限度で……
ただ私、一年生の頃に単位を全部とっちゃったんですよ。一年生でとれる科目全部とっちゃったんですよね。
二年生になったら週に二回の必修科目だけでよくなったので、週五、週六で出勤すようになって。
そこからすぐにナンバーワンになりました。
————え、すごい!はやいうちからナンバーワンだったんですね!才能ですね……
一年生の頃は次の日の授業のこととか気にしちゃうし、教習所にも通ってたので、アフターや同伴とかも出来ないことも多くて。
でも……だからなおさら、私がフル出勤できるようになったら、ぜったいナンバーワンになれるって思ってたんですよ。
他の子たちを見てて、やり方とかも研究してたので(笑)
なので、フル出勤できるようになって、アフターや同伴もできるようになったら、すぐにナンバーワンになりました。
————ほかの人にはない“武器”などはあったのでしょうか
やっぱりお客さんとの付き合いはすごく大切にしていました。
アフターとかも三件重なったりして、家に帰ってくるのが朝の九時というのもザラでした。
早くても五時とか、六時とか。
トリプル同伴もあって、一組目のお客さんとご飯食べて同伴して、二人目のお客さんとは待ち合わせ場所と時間をちょっとずらして同伴して、三人目のお客さんも時間を十分くらいずらして裏口で待ち合わせしたり。お客さん同士がバッティングしないように気をつかったりしていました。
同伴が重なると断っちゃう子とかもいるんですけど、私は絶対断らないようにしていました。
————“女の世界”というと、妬みや嫉みなんかもありそうですよね……
あったのかもしれないですけど……気にも留めてない。
なんで私が売れないホステスの発言を気にしないといけないの?って感じです(笑)
————印象深いお客さんとかもいましたか?
普通のなにもない日でもドンペリとか結構あけてたんですけど、私お酒飲めなくて……ひと口だけ飲んでヘルプの子に飲んでもらったり、お客さんがトイレに行ってる間にアイスペールにジャーって流したり(笑)
でも、私が飲めないって知ってても売り上げ貢献であけてくださるお客さんもいました。
誕生日のときとかはドンペリの嵐です。
それで雑誌にも『ドンペリを一番売る女』って取り上げられたりして、ヘネシーの社長が来てくれました。
「ここの店ですごいドンペリがあく。いったい誰があけてるんだろう?」みたいな感じで、来てくれたんですよね。
————かっこいい、言ってみたいですね、『ドンペリを一番売る女』(笑)
この世界を引退しようと思うきっかけなどは?
十八、十九からずっとナンバーワンだったんですけど、二十六くらいのときに「この生活を続けていたら死ぬな……」と思ったんですよ(笑)
飲まないとは言え、一、二杯は飲んでいましたし、それで具合が悪くなることもあったし……同伴で早起きすることもありましたし。
でも、同伴とかそういうことをやめたら、ナンバーワンじゃなくなるかも、という気持ちもありました。
ただ、ナンバー2になるくらいなら、やめたほうが良いと思ったんですよ。
私の中ではナンバーワンしか見えていなくて、あとはナンバー2もナンバー10も一緒なんです。ナンバーワンじゃなかったら意味がない。
————それはたしかに他のホステスの妬み嫉みなんて聞こえませんね(笑)
そうなんです。
どこかの店舗でナンバー2やナンバー3になれたって喜んでいる子を見てて、恥ずかしくないのって思ったりもしていました。
あと、経営者になりたいって言うのもありましたね。
————経営に興味を持ち始めたのはいつ頃ですか?
引退を考えはじめたときに、経営にも興味を持って。お客さんの七割くらいが経営者の方たちで、もちろんサラリーマンのお客さんいたんですけど、やっぱり経営者の方がほとんどでした。あとは一時的にお金を持っている、その……反社会的な方たちとか(笑)
その経営者の方たちの話を聞いているうちに、興味がわきました。
いままで十年近くやってたホステスの経験を生かしてできることってないかなって考えて、それがバルーンショップでした。
当時、歌舞伎町にはあったんですけど、すすきのにはシャンパンタワーが無かったんです。すすきのにもシャンパンタワーがあればもっと盛り上がるし、注文もくるだろうなって思ったんですよ。
歌舞伎町で流行ってることって、すすきのでは半年遅れで入ってくるんです。
そこに目をつけて、バルーンとシャンパンタワーの会社を始めました。
————ホステス時代と経営者になってからでは、やはり生活は大きく変わりましたか?
収入的にはホステス時代にはかなわなかったんですけど、自分で動かなくても収入が入ってくる仕組みは作れました。
時間ができたぶんだけ、好きなことができるようになりましたね。
ただ、昼職をやったことがなかったというのもあって、いろいろ言われることはありました。
「どうせすぐ潰れるんじゃないの」とか「経営そんなに甘くないよ」とか。
お花屋さんとか、似たような業種からはバッシングも受けて、いやがらせ的なことも……いまでもありますね(笑)
お誕生日になったらお花を贈る、という文化を可愛いバルーンを贈るっていう文化に私が塗り替えちゃったので。
「もって半年だろうね、経営ってそんなに甘いものじゃないし」って説教してくる経営者のお客さんがいたんですけど……半年後にその人の会社が潰れてるってこともありました(笑)
夜の仕事の子って時間にルーズになりがちなんですけど、昼職の人たちはそんなことないんだろうなって思っていました。でもそんなこともなく……遅刻してくるひともいるし、あんまり変わらないんだなって思うこともありました。
そういうようなところでストレスたまったり、イライラすることもありましたね。
————やっぱり雇われる立場から雇う立場にかわると色々とありますよね……
それではここから、『美容整形』についてお伺いしていきたいんですけど、すっごいお綺麗ですよね!
ありがとうございます(笑)
————びっくりしました。顔が小さい!
幼いことから容姿にコンプレックスがあった、とのことなんですけど、差し支えなければその頃のエピソードなどお伺いできますか?
けして可愛くはなかったです。
お正月やお盆などの親戚が集まる場面で「朋海ちゃん大きくなったね」というようなことを言われると、母が「可愛くなくて不憫な子だわぁ……」っていうんですよ。
お正月とお盆、年に二回言われ続けたんです。小学校、中学校のあいだ。
“私は可愛くなくて不憫なんだ”ってマインドコントロールされてしまって……
————お母さまの一言で刷り込まれてしまったんですね……
そうなんです。
なんで母がそんなことを言ったのか聞いたんですけど、冗談と謙遜だったそうです。
大人になって母の言うこともわかるようになったんですけど、やっぱり多感な時期だったので……
しかも、言ったことすら覚えてなかったんです。
母に「言うのやめて」って言ったこともあったんですけど、やめてくれなくて。褒めたたえなくてもいいですけど、別の言葉もあったんじゃないかなって。
————お母さまの一言で刷り込まれてしまったんですね……
一番最初に整形したのはどこだったのでしょうか?
ひとえ瞼だったので、ふたえ瞼にしましたね。
高校生のときにアルバイトで貯めたお金で目の整形と、歯並びが悪かったので、前歯六本をセラミックにしました。
今では真っ白な歯も流行ってるんですけど、二十年前だったので、「真っ白だと不自然だよ」って言われてしまって……
私は真っ白が良かったんですけど、大人の圧力に屈してしまって(笑)
その後また入れ直したんですけど、そのときはナチュラルな色にしました。
そのあとに豊胸手術をして、それも二十年前なので……いまではシリコンも自然な感じで、種類も豊富なんです。だけど当時の日本ではシリコンは体に悪いと言われてて、生理食塩水だったんです。シリコンと比べると不自然な感じではあるんですけど、胸を大きくしたいと言う願望があったので、生理食塩水のバッグで豊胸手術をしました。
目、歯、胸の三つをいっきにやりました。
————その時の年齢は?
高校卒業してすぐです。
二十歳前にはその三セットが揃ってました。
いまでは整形も肯定的な世の中になってきたんですけど、二十二年前は否定的でしたね。
まぁ、私も『自己満足』というか、自分がなおしたいからやるんだ、という意思が強かったので。
周りになにを言われても気にならなかったです。
————自分の身体にメスを入れることについて、怖さはなかったのでしょうか?
怖さよりも「美しくなりたい」という思いのほうが強かったので、全然怖くはなかったです。
でも痛みはすごかったです……
整形だけじゃなく医療も二十年前は発達していなくて……
痛み止めや麻酔も効き目の強いものがあるんですけど、その当時は気休め程度のものしかなかったんです(笑)
目は五回やってるんですけど、いまはあまり腫れない手術方式や、腫れが早く引く薬とかもあるんですよ。
————二十年もあるといろいろ変わりますね
当時、目をやったときなんか、お岩さんみたいでした(笑)
誰かに殴られたの?みたいになってましたね。
治るのかな?これちゃんと落ち着くのかな?というような不安はありました。
セラミックにするときに仮歯をいれるんですけど、ポロポロ落ちてきたりも(笑)
————直近だと、どこか手術しましたか?
インティマレーザーという手術をやりましたね。
膣内縮小手術という、文字通り膣を縮小する手術です。
手術時間は十五分、ニ十分くらい。
————そんな手術もあるんですね!いくらくらいするんですか?
これは意外に安いです。
十六万円くらいかな?
十六万でも大金ですけど、いままでやってきたことに比べると、まぁ安いほうかな?
おでこやったり、鼻やったり、口やったり…顎やったり……胸も三回入れ替えたり……
日本でシリコンが使えるようになってから、生理食塩水だった胸もさっそく入れ替えに行きました。
EカップかFカップくらいになったんですけど。
————重たくないですか?
肩が凝ります(笑)
あと、異物を入れてるので、寝返りを打ったり起き上がるのも痛かったですね。
三十越えてからJカップにしたいと思ったんですけど、骨格的に不可能だって言われてしまいました。
でも大きくしたいってなんとか訴えて、特注のバッグをつくってもらったんです。
それがいま入ってます。
————え!いまJですか!?
Jまではいかなかったんです……
いまHです
————日本で下着が売ってなさそうですね……
売ってないです、困りました(笑)
Hなって喜んでたんですけど、下着がなくて困りました。
————四十代という大台を目前にしてモデルを目指す決意をされたそうですが、モデルをやりたい、というような思いは今までもあったのでしょうか?
三十八歳のときに某雑誌の読者モデルを何回かやらせて頂いて、モデルになりたいなと思ってウォーキングレッスンに通ったりもしていました。
実はランウェイも五回くらい歩いてるんですよ。
減量して骨と皮くらいまで痩せたこともあります。
身長160センチで43kgまで落としました。
一昨年の年末にエステサロンのモデルの大会があったんですけど、優勝しか見ていなくて……
————相変わらず目指すところは頂点ですね!
そうなんです。それで、すごいストイックな生活をしていたんですけど、グランプリとれなかったんです。
パーツビューティ賞という賞はとれたんですけど、三位だったんですよね。
それで、ちょっと気が抜けちゃって……そのままお正月がきちゃって(笑)
ずっと我慢にしてきたところに、寿司とかご馳走が並ぶんですよ!
正月だからいいや!って暴飲暴食、一月で終われば良かったんですけど、二月も続いちゃって……
見事にリバウンド。
結局その年は一度もランウェイ歩いてないんです。
————現在所属している芸能事務所とはどういった出会いだったのでしょうか。
札幌には本格的なウォーキングレッスンがなくて、札幌から東京までレッスンに来ていました。
レッスンのために東京へ来た時、スパに泊っていたんですけど、暇だなぁと思って(笑)
エキストラのバイトをしようと、登録しに行ったら事務所の演技レッスンもやってみないかとお声がけ頂きました。
モデル一本で行くのはやっぱり難しいですし、演技も出来れば幅が広がるので、演技のレッスンも受けることになったんです。すべてのコマ数を消化したときに、正式に所属することになりました。
————ファッションモデルや、マルチに活躍するタレントモデルと様々ありますが、目指すところはやはりショーモデル?
やりたいのはランウェイモデルなんですが、いまは演技のほうもやりたいです。
演技のほうでは脇役の脇役をやりました。セリフ五個くらい(笑)
マネージャーからは、演技のほうはまだまだだね、と言われてしまいましたが。
バラエティーではありがたいことに、オファーを頂くこともあって、このまま続けていけたらなと思っています。
————ツイッターで告知していらした、番組、楽しみにしていますね。
バラエティーも出来て、演技も出来て、ショーも出来る、というのが目指しているモデル像なのですね。
というか、選んでられない(笑)
こうやって上京してきて、あれは嫌だ、これは嫌だ、というのは言っていられないなと。
————私生活のほうでは三度、結婚をご経験されているそうですが、全員ホストさんなんですね。
さぞかしモテるでしょ、っていわれるんですけど……
ダメ男ばっかりくるんですよ!
なぜかダメ男ばっかりくるんですよね(笑)
いま振り返ってみるとダメ男だったなと思うんですけど、交際しているときはダメ男の認識がないんですよね。向こうが全部悪いんです(笑)
私はひとつも悪くないです。
一番ヤバかったのは二番目の旦那で、紹介された家族がレンタル家族でした。
————えー!本当にいるんですね、そういう人!
まさに世にも奇妙な物語です。
テレビとか小説で見て、まさかこんなのないでしょ、と思っていたらまさかの(笑)
血のつながりの一切ない、本名もなにも分からない赤の他人。
————すごいお話をきいてしまったところで最後に。
朋海さんにとっての『美しさ』について、いくつかお伺いさせてください。
私はターミネーターなんですよ。
いつの時代に飛んでも変わらない。
四十になっても、五十になっても六十になっても二十代にしか見えない体形でいたいんです。インティマレーザー(膣内縮小手術)とかも、そう。
見えないところも内側から、綺麗でいたい。
————高校卒業してすぐに美容整形をはじめて二十年。美しさに対する思いに変化は?
当時は、なおすのに必死でした。
いまではキープしたい、という思いです。
————朋海さんが目指すのはどのような美しさか、最後に教えてください。
目指す美しさですか……
私は美の追求をこれからもしていきます。
やりたい手術もまだまだありますし。
最終的に何歳まで生きるかわかりませんが、棺桶に入るときに皺ひとつない状態。
皺ひとつない姿で棺桶に入るとき、私の目指す美の追求は終わります。
それが完成形。
永遠の美を求める女ターミネーター、椿朋海さん。
整形しているから美しいのではなく、「美を追い求めていく姿」が何よりも美しいのだと思う。
彼女の話を聞いていると、“追い求める”ことへの生命力を感じずにいられない。
目指すものに向かって手を伸ばしてみよう、足を踏み出してみよう、彼女を見ているとついそう思わせられる。
それがなによりも、『椿朋海』という美しさの所以であろう。
今回は、朋海さんが代表を務めるバルーンショップ 「フィル花椿 」の作業風景にも同行させていただきました。
15年くらい前、当時すすきのにシャンパンタワーやバルーンスタンドなどの文化がなかった。
初めてすすきのにバルーンを導入させたのが、椿 朋海さんでした。
まわりの方にバルーンショップを始めるんだと話すと
「え?なにそれ、気球でも飛ばすの?」
「わかった!大道芸の風船で犬とか作るやつ?」
な反応でしたと語った朋海さん。
歌舞伎町ではやることは、半年後にはすすきのや国分町、中洲でもはやる!
そこに目をつけた朋海さんは、誰よりも早くシャンパンタワーやバルーンスタンドをすすきのに導入させた。
とにかくアレンジの勉強して、お花やバルーンの資格をとり、周りに認知されるように努めた。
だが10年という長いキャリアがある朋海さん、多くの方に支えられ一気にすすきのにこの文化が広がっていきました。
バルーンアーチ、バルーンのギフト、店内の装飾全て朋海さんが自ら手がけ常に装飾に使えそうなネタを探し仕入れた。
時にはロケで出かけた横浜や京都でも、装飾に使えそうと思ったら即購入して持ち帰ったそうです。
注文が重なるクリスマスなどは、かなり前からスタンバイして駆け込みの注文にも対応している。
ハロウィンや月末もかなり忙しく、徹夜で準備に取り掛かることも稀ではないそう。
今や当たり前となったシャンパンタワーやバルーンスタンドは、“椿 朋海”さんがすすきのにその文化を作り、広めた先駆者である。
そして、今でもどこの業者よりも綺麗に美しく作りたいというこだわりを持ってフィル花椿は運営されていました。